我が家の戦災記録

ー 昭和二十年八月二日 水戸空襲 ー
  目次


以下の各項目をクリックすると、そのページに移動します。


 

 警 報

 避 難

 父との再会

 土蔵焼失

 位 牌

 救 援

 焼跡の整理

 行 列

 露天風呂

 葬 列

 
 原爆投下と
  ソ連参戦
 終 戦

 奇跡の復員

 兄二人の復員

 復興に向かって
 
 戦争の記録を
  後世に
 
 戦没者の御冥福を
  祈りつつ

ページ番号: 0/30

*このサイトのコンテンツに関する著作権は、
  筆者・編集者・サイト作成者にあります。
  転載・複製等をご希望の方は、事前に下記
  まで、ご連絡下さい。
    e_mail: admin@castanea.jp

旧向井町地図
被災跡映像
戦災記録原本
テキスト表示
Last Update : 2004.8.15
 


























    我が家の戦災記録





             成井信子
















        これは、私の叔母の戦災記録である。
        筆者である叔母は、水戸市向井町
        【現大工町二丁目】の老舗の薬屋の三女、
        私の母(文中の長姉)の妹である。
        つまりこれは私の母の戦災記録でもある。
        かつて父が編集、製本したものを、より多く
        の方々に知って頂くために、このたびウェブ
        に掲載した。


                HTML作成者 栗山洋一





















       序


 終戦の年、八月二日の水戸大空襲は、水戸市内に居た多くの人達が皆体験した事であり、取り立てて書くほどのことではないとも思ったが、我が家の場合は、一般家庭と少々状況が違っていたので、思い立って一応書き残してみることにした。
 私の家は、その頃、市の繁華街にあって、古い暖簾の薬屋であったが、当時はきびしい統制時代で一般販売品はほとんど無く、実質休業状態であった。二人の兄は、薬科大学を繰り上げ卒業となって、兵隊に取られていた。父は統制組合の奉仕的な仕事に出ていたばかりでなく、町内会長もやっていて、対外的な仕事に走り回っていた。戦時中の町内会長は、いろいろと雑用が多かった。
 店や家庭内の事は、母親が早く亡くなったことから徴用を免れた長姉が、主婦代りとなって切り盛りしていた。生活物資が極度に不足していた時代、妹弟、そして男親の面倒、家事一切を切り盛りしていた姉の苦労は、大変な事だったと思う。
 厳格な父の教育の下で、上からの命令には絶対服従であり、加えて、なまじ若者の純真さで忠実に戦争に立ち向う心意気があったばかりに、空襲時の避難が大分遅れてしまった。このため、行く手を火に阻まれ、猛火の中を予想以上に方々と逃げまどう苦しい体験を味わう結果となった。さらに、国策に沿ってと頑固に疎開を嫌った父のため、家財一式と共に店と住宅を一夜にして焼失してしまった。年頃の娘三人の痛手は殊の外大きく、いつまでも心を離れることがなかった。より以上の苦しい体験をした方は多いと思うが・・・・。
 その一方で、戦災の痛手の中で忘れる事が出来ないのは、人の情けだった。罹災者へ差し伸べられた多くの方達からの救援の手である。誰もが生きる事に苦しい時代であったにもかかわらず、助け合いの精神がしっかりと生きていた良き時代でもあった。
 本稿を書くに当り、最初に記さねばならないこと、私たち家族が忘れてはならないことは、東原町の小林政之介さん一家、 口労町の富田さん、谷中の成井さん、その他各方面の方々から受けた援助の数々である。苦しかった我が家の戦災復興が早く完了出来たのも、このように多くの方々のお力添えがあったればこそと、感謝の気持を記しておきたい。
 各地で戦争を語り伝える運動が起こりつつあるが、内地に残った人々も国内の戦争とも言うべき空襲を体験している。
 私達の年代は学業を中途にして軍需産業に学徒動員され、兵器工場で一日中油にまみれて、月月火水木金金の馴れぬ重労働についていた。工場を襲撃する機銃掃射に見舞われる日々、月二回の大切な登校日は、緊急看護婦養成のための陸軍病院等での救急看護の特訓と、全く休日無しの生活。それに加えて市内の人達には、夜毎の空襲が続いたのだから、体をこわさぬのが不思議な位だった。楽しかった事といえば、せいぜい日中工場で、グラマンが来て大きな防空壕に逃げ込んだ時、友達といっしょになれて、小声でお喋りが出来たり、女学生らしい軍歌などを歌って、ささやかに青春を謳歌した位。体力を消耗しきって、衣食住のすべてを失った私達の青春時代。言葉には言いつくせぬ苦しい時代を、過ごして来ただけに、暫くの間は戦争の事を思い出すのもいやだった。
 しかし、こうして時が過ぎ去り、戦争体験も風化してゆく今、私も戦争体験者の一人として、あまりボケけぬうちに、子孫に悲惨な戦争の語り部としての役を務めるべきと、自分達自身が体験した我が家の空襲の事を書きしるすことにした。






























 
      警 報


  昭和二十年八月一日の夜から二日未明にかけて水戸市内
  を襲った米軍機 B二九爆撃機
  延べ二百数十機 焼夷弾と小型爆弾の混用
  正確には零時三十分より二時間半の爆撃
  市の人口の八〇%の被災者
  家屋の被害一〇、一〇四戸
  死者 二四〇人
  負傷者 一、二九三人
  市役所・水戸駅・好文亭・常磐神社 焼失
  新荘小学校を残す大半の学校焼失
  軍隊は三十七・四十二部隊とも残る
           (水戸市の戦災被害発表から)


 その日工場に行った日か、学校に出た日か忘れたが、友人達が空襲を予告するビラが米軍機から撒かれたのを拾ったと、こそこそ話をしていた。憲兵や警察の耳に入ったら大変。ビラは一枚残らず届ける様にと達しが出、デマにおどらされぬようにときつく言われていた。
 ビラの内容は、「アメリカ軍は近日中に左記に書かれている都市を爆撃する。人道的なアメリカ軍は、一般市民に被害を与えないため、此のビラを見た人は一刻も早く、安全な場所に避難するように。」との警告ビラ。そして関東地方の中小都市名が十ケ所位書かれてあった。大半は憲兵隊や警察の手で集められ、市民の一部の人の目にふれただけで没収されてしまった。
 その頃毎夜きまって空襲があるので、その晩も早めに食事を済ませていた。(食事といっても当時は炒り大豆と菜っ葉と芋入りのお粥)夜八時頃だったか私は何か父の手伝いをしている時、一回日の警報が出た。父は町内会長をしていたため、身支度をして町会所へ向かった。私達兄弟姉妹四人は、貴重品袋等を持って庭の防空壕へ。


 ビラが撒かれていた後だけに、その日の様子は何時もと違っていた。大工町広小路から神崎寺に向う道路のあたりは、真っ暗闇の中に大八車の音や人の声が入り交じって、何となくざわついている感じだった。やっぱりビラの件が気になって、避難して行く人が多いのかしら、と思いつつ壕から出て、爆音をたしかめようとした。その晩に限って通りの騒音の方が気がかりで、B二九の爆音が聴き取れないでいるうちに、広小路先の大工町の一角の上空【現在の大工町バス停付近】で照明弾らしい光が一発光った。  当時は、監視哨の指導では、爆音を聞いて敵機の位置・機数を見定め、どの位置で爆弾を投下したら自分達の居る場所に落ちて来るかを判断せよと、爆撃機を迎える態勢に肉眼が重要視されていた時代だった。その要領で懸命にさがしたが、燈火管制の闇夜に見える筈も無く、照明弾らしい一発の光を見てから間も無く爆音も去って、空襲警報は解除された。
 父からは「町内会長の家族の者が命令もなくして、避難するのはもっての外、町内の範たる事を示せ。」と、常日頃の厳命。ビラに惑わされないで、自宅の防空壕に居て良かった、やれやれと、せまい壕から出てしばらく靴もぬがず(靴と言っても指先の無い先の丸くなった、こはぜ付きの地下足袋)茶の間の上がり框に身を投げ出して、四人でゴロゴロしていた。公園の方に避難して行ったらしい人達の戻って来る物音が聞こえて来る。さすがに帰りは荷車の音や人声も賑やかに聞え「ご苦労な事だね」、「ビラはやっぱりデマだったのか」などと話しながら、その晩にかぎって、靴のこはぜをはずすのも億劫になって、靴をはいたまま寝そべって、うつらうつらしていた。
 すると、一時して、スイッチを入れたままにしておいたラジオから、また、「空襲警報発令 東部軍情報」という声が一段と甲高い調子で聞えて来た。「B二九の数編隊 鹿島灘より進入北上中」。 不吉な予感が走る。当時は貴重品だったラジオを外し、中学生の弟が木綿の大風呂敷に包んで背負った。その夜は特に、今までの身支度の外に、茶の間に靴のまま上って茶箪笥と箱火鉢の小引き出しを改め、母の形見の品でも持ち忘れはないかと姉達と念入りに再確認をした。
 
      避 難


 外では警防団の方達の、「退避」「退避」のうわずった声。続いて爆音と同時に広小路の方が、闇夜にいちどに電灯がともったように明るくなった。
 父もさすがに「すぐ公園に避難するように」と指示する。めいめい前もってきめられた責任の荷物を持ち、片手には各自バケツを下げて、姉弟四人で市の指定避難地区になっていた公園【偕楽園】に逃げようとして表に出た。
 外は先刻の空襲の時の戻りの人達もあって、騒然となっている。父は町内の重要書類などを持って後から公園に行くからと、我々四人だけ先に出た。隣の吉田石油店には、消防自動車が給油に来ていて、私達が日頃言われている通りに避難の声を隣近所に掛けていたら、消防士から「何をグズグズしていた。」と怒鳴られる。近所に顔馴染の姿は見当たらなかったし、またそれ以上確認する余裕もないまま、姉を先頭に走り出した。
 大工町広小路はすでに焼夷弾が落ちていて火の手が見えていたし、先ほどの戻りの人々の混雑も予測されたので、雷神前通りを行くのを避けて、近道を取ることにした。軍司さんの横から新大工町【大工町郵便局裏西側の一角】に抜けるつもりで行ったところ、路地はすでに両側の家から火が吹き出していてとても進行出来る状態ではない。広小路に戻るにも火は追って来るし、公園口に向ってと四人で町内を西へ上って走る。
 「きど印刷所」付近【大工町二丁目】でザーザーと雨の降るような音と共に、道路一面にカランコロンと火の付いた焼夷弾の細長い缶が落ちて来た。急いで軒先の防火用水の水を各自バケツで汲んで頭からかぶり、焼夷弾をよけながら火の見櫓の下まで走った。
 足元には、瞬く間に焼夷弾の火の付いたボロ布が一面にメラメラと不気味に燃え広がって来て、思わず足がすくんでしまう。油脂焼夷弾だ。訓練の折にそれをうっかり踏みつけると、油で滑って体中に付着し火だるまになるからと、再三再四注意 されていたので、防空ズキンの上からまた用水桶の水を充分にかぶり、焼夷弾を踏みつけぬよう慎重に火の中を渡り抜ける。横目に、広瀬菓子店の家の中に吊ってあった蚊張がメラメラ燃えているのが見えた。
 当時の道路はそこで大きく曲っていて、その先に行くと我が家の方が見えなくなるので、振り返りたい一心だった。しかし後は真っ赤な火の手がせまってくる様子、前進するより他にないと公園口に行く。ここまで来るのに随分と遠く感じた。この辺の寿町【大工町三丁目信願寺付近】も一面の火の手、何度かバケツで水をかぶる。次は、浄安寺を目標にして走る。
 向井町二丁目【大工町二丁目】から、久保町【大工町三丁目】に変わる所で、道は左に鈎の手に曲がっていた。ここまで来てまた頭の上にザーザーと爆音と共に焼夷弾が落ちて来る。丁度運良くその場所に、協同の大きな防空壕があったので飛び込み、落下のおさまるのを待つ。助かった。
 久保町にはその時はまだ火の手も上っていないし、比較的大きな壕だったので、ここにとどまろうか、と話しあったが、
B二九は波状的に飛来してくる。いつ焼夷弾の直撃に遭うともかぎらないし、ましてや爆弾でも落されたら大変と、焼夷弾の落下の落ち着くのを見て、また水を頭から充分にかぶり先へ進む。何回軒下の防火用水の水をかぶった事か。
 「ボーフラ飲んじゃった」などと言いながら走る。目的の場所へ行く道々は全部ふさがれ、農学校【現在の歴史館】へ逃げる事も考えたが、久保町から木之折町【緑町一丁目浄安寺裏】に通じる道は細いし、各所に車や人が溢れていて、ぐずぐずしていたら危険、曲る事も出来ぬまま通れる道や広場を求めて走る。
 東町【東原1丁目】から水高【水戸一中・国立病院付近】の脇に通じる道に人が流れて行く。水高のグランドに逃げこめると思ったのに、行く先行く先が爆撃されている。何度かB二九の編隊が来て水高の土手に身を伏せたが、グランドの門が開いてなくて中には入ることができなかった。
 その付近の焼夷弾の雨はすごかった。新荘小学校付近から周囲の畑一帯にかけての上空は、まるで大型の打ち上げ花火でも ているような、夜空に美しいまでの光の乱舞。炸裂音はあまりないが、ザーザーと雨の降るような音と爆音は絶え間ない。B二九の機体が明るくなった夜空に浮かび出ている。空の明るさで周囲が見渡せる。避難の人も多くなっていることもあり、家を飛び出して来た時に比べると、気分的に多少落着いて、次に取るべき行動を考える余裕を持てるようになってきた。焼夷弾の落下状況を見て、打ち上げ花火の光景を思うまでの冷静さも戻っていた。とは言っても、爆弾を落されやしないかという恐怖感は、どうしようもなくつのってくる。
 爆音が遠のくと身を伏せた土手から走り出す。あの土手にそった道の長かったこと。何度も身を伏せた、その伏せている間の時間が恐ろしく長く感じた。  水高正門(現在の国立病院正門)まで走った。その時分には、付近の家々から逃げそびれていた人達が飛び出して来たりで、避難の人の数は多くなり、女の人達も居て大分勇気が出て来た。正門には軍隊が居て、中のグランドに通してくれぬ。ぐずぐずしてもいられぬので、仕方なしにまた前進、人の流れに付いて走る。
 常磐小学校まで走る内に、また、次の編隊の爆音、やっぱり校庭には入れず、付近に壕も見当たらぬま、道路の下水溝に飛び込んで身を伏せる。周囲は畑、誰言うとなく、練兵場(現在の県営総合グランド)へと人の流れは走った。
 B二九の波状攻撃は続いている。練兵場に入ってからも、焼夷弾の落下が続いた。兵隊さんの入っている防空壕に逃げ込もうとしたが、「民間人は入れぬ」と言う。 爆撃の最中に、軍人は壕に入って、我々民間人、それも命からがら半道以上も走り通して逃げて来た女子供達が頼んでも駄目。何度頼んでも、素っ気ない返事が返って来るばかり。なんと軍人の冷たい事かと悲しくなる。このときほど、私達を追いやる見張りの兵隊を、憎らしく横暴に思えた事はなかった。
 どうともなれと仕方のないまま、原っぱに駆け出したら、付近に居た別の兵隊さんが、手助けをしてくれて、野っ原の中の蛸つぼ穴に入れてくれ、身をかくすことが出来た。同じ兵隊の中にもやっぱり人間が居たと、つくづくありがたく思った。
 広い野っ原の蛸つほの穴は人が一人入れるだけの小さな穴だった。皆と別々に別れて、素掘りの穴に身をひそめているのも不気味だった。どのくらいの時間が過ぎたか、原っぱに出て何人か集り、男の人の声を頼りにと暗い中、お互いに顔はわからず声だけで名乗り合ったら、泉町二丁目の「ひろや」毛糸店の御主人との事、私達も糸など買いに行った事がある顔見知りの方、やはり逃げ道を失って、公園に行けず此の方に逃げて来てしまったそうだ。ただ一人の大人にすがる思いで力づけられ、行動を共にする。
 飛行機が飛び去った後の広い練兵場の草むらに腰をおろして、市街地の焼ける様子を見て居た。水戸駅の方角ですごい爆発音が何回かして不安になる。
 そうこうするうちに、周囲の人達の間から、また、軍隊をねらって爆撃に来ると言うヒソヒソ声を耳にする。考えてみたら私達が居る此の場所は練兵場、目の前は三十七部隊と四十二部隊、陸軍病院も揃っている。軍のメッカに座り込んでしまっているわけだ。選んで来たわけでもないのに、追われ追われてとんだところへ逃げ込んで来たものである。
 今となっては後続の爆撃が来ない内にできるだけ練兵場から遠く離れるしかないと、付近に居た一団が、石塚の方角に向って歩き出した。しかし、渡里方面の雑木林を見ると、山の中へでも入って行くようで気味悪い。もしこれからB二九が来たとしても、此の広い原っぱの中だったら、何とかなりそうに思われ、また、それ以上に走る気力も失せていたので、また草むらの中に座り込んでしまった。
 市街地の火の手も夜明けとともに下火になり、明るくなるのを待って周囲の人達が、三々五々火災の残る市街地に帰りはじめた。私達も「ひろや」の御主人と練兵場で別れた。
 何処をどう歩いて行ったのか道順は忘れたが、顔中煤けて全身泥水で汚れた、全くの乞食同様の姿で、四人揃って焼けなかった東原町の父の友人の小林さん宅にたどり着いたのは、朝の六時半頃だった。

 

      父との再会


 心配していた父は一足先に来て、公園に逃げた子供達が心配だからと言ってすぐ知人と一緒に、公園に探しに出て行ったと聞き、父が無事であった事に安堵する。
 公園付近は、焼夷弾に加えて爆弾も落され、特に爆撃がひどかったと聞いて、父はそれはそれは心配して出て行ったとの事。よもや私達が練兵場まで行ったとは思ってもいなかっただろう。小林さんが、迎えの人をすぐ出してくれた。
 公園はどの道から入るのも、人でごった返していた様で、尋ね人の声が入り交って騒音と化していたとか。好文亭付近でいくら呼んでも、私達の返事は返って来ないし、道で会う知り会いの方達に尋ねても誰も私達を公園でみかけた人はないと言うし、父は公園にたどり着く前か、園内の何処かでやられてしまったのではと、涙声で私達を探し求めていたという。迎えに行った人達が連れ戻して来てくれた父を見るなり、お互いに無事であった喜びに、しばらく言葉もなく涙が流れるばかりだった。
 父の顔は、一段とひどく煤けており、目玉がよけいにギョロギョロとしてしまって、鼻の頭から頬にかけて火傷の火ぶくれ、眉も焦げ、まつ毛までチリチリに焦げて、腕には傷を作って、それは痛々しい姿だった。
 それからひと時、父の避難経路を聞く。
 私達と別れてから、父は町内会の名簿や書類など持って、一度、広小路の協同の防空壕へ逃げ込んだが、危険を感じて爆撃の合間に、雷神前の通りから公園に向うつもりで通りに走り出たとの事。付近の家の中はすでに燃えているのもあり、その避難の途中(現在のフクダヤ付近)の路上に焼夷弾が落下、それが父の足元で燃え広がって、たちまち衣服に燃え移り、炎に包まれた時は、もう駄目だ助からぬと、覚悟をきめたそうだ。
 そのとき、目の前に防火用水の桶が見え、父は、火に包まれた体で、ただ無我夢中で勢いをつけて用水桶に飛び込んだ。運よくまだ桶には水が入っていたので、その瞬間に火が消え、助か った。
 生きられると思うと、それからは夢中で神応寺まで走ったそうだ。まだ本堂は何ともなかったので、本堂裏手の墓地に逃げ込んだらしい。そのうち、バラバラと焼夷弾が落ちて来て、本堂も火に包まれてしまった。火の手と落ちて来る焼夷弾を避けて、あちら此方と墓地の中の杉の木や墓石の間を抜けながら自分の家の墓所にたどり着き、そこに居た。しかし、間近にある和田平助さんのお堂にも焼夷弾が落ち、大木にも火が着いたりで、熱くなり、とうとう墓地の一番奥までさがって行った。
 偶然にも、お隣りの吉田さんのお父さん(清左衛門さん)と一緒になり、「幼な馴染同志、死ぬ時はいっしょですね」とお互い冗談口をたたいて勇気づけあって、板切れだか、トタン板だかを楯にして落ちて乗る火の粉を振り払いながら、本堂や和田さんのお堂の焼けるのを見て居たと言う。




































 
      土蔵焼失


 向井町は、我が家のある一区画、軍司さんから家のところまでが最後まで焼けずに残っていたので、「助かりましたね」父と吉田さんの二人で話していたら、最後の編隊で来たB二九の焼夷弾の親爆弾が、私達の家の土蔵の屋根を直撃するのが見えたと言う。全財産を収納しておいた蔵の屋根が落ち、火を吹き上げるのを見た時は声も出ず、男泣きに涙が流れたそうだ。
 B二九の編隊からの続く焼夷弾の投下で火を吹き始めた我が家と吉田さんの家の火の手を、無言で二人で見ていたそうだ。自分の家の最後を自分自身の目で見ていたのだから悔いは無いと、強がりを言っていたが、その時の父の心中を思うと、疎開の件をあまり責める事も出来なくなった。
 極度に疎開をきらった父は、関東大震災でも土蔵は残ったのだからと、土蔵を過信していた。荷物を入れる前には出入りの左官屋さんを頼んで入念に手入れをし、出来上がったばかりだった。
 その頃、大阪の航空通信隊に居た兄が、大阪の空襲を何度か見、土蔵が焼けるのを目にして、土蔵を過信しては駄目、周囲から来る火に対しては大丈夫だが、屋根はもろいのだから、空から来る爆撃には、何の役にも立たぬ、一刻も早く荷物の疎開はしておいた方が良いと、再三検閲のかからぬ手紙で連絡して来て居た。 それを読んでも、意固地なまでに頑固になった父は、首を縦に振らぬ。こんな時、母親でも居たらまた何とかなっただろうが、二人の姉にできることは、父の顔色をうかがいながら、留守をねらって荷作りし、二荷物だけを他所に預けたり、庭に穴を掘って茶箱等を埋めたりする程度で精一杯だった。二十才そこそこの姉達の家庭内での苦労は、並大抵の事ではなかったようだ。
 空襲が頻繁になり、日立や勝田に艦砲射撃があったりして、周囲の親戚からも注意され、父もしぶしぶ夜具と箪笥一竿の疎開に同意をして、石崎の知人の家に預けることになった。
馬車の都合待ちをしていて、八月二日に取りに行きますからと連絡があった矢先の事であり、父も今までにない大きな判断の誤りの結果を目の当たりに見せつけられ、男としてどれほどか悔しかった事だろう。満杯の我が家の土蔵だけが直撃を受け、跡形もなく焼け落ちるとは、あまりにも皮肉である。






















































 
    位 牌


 父の戦場を思わせるような苛烈な避難状況を聞いて、家財もなにもいらぬ、こうして親子が火の中をくぐり抜け、無事生き延びられたのが何よりと思え、涙を流して父にすがりついた。
 父が避難して家を出る時、昔の祖父の羽織の裏地か何かで姉が作った絹の袷の袋に先祖と母、兄達の位牌五つを入れて腰に下げていた。だが、父の体に火が付いた時、衣服はほとんど焼け無かったのに、腰に下げていた袋の底だけがポツンと抜けたように焼け落ち、五つの位牌が影も形も無くなって、空の袋の上部だけがむなしく腰に下がっていた。仏が身代わりをつとめてくれたのだろうと、父の話を聞いた誰もが声を揃えて言ってくれた。
 後になって、雷神前付近の女の方が、焼跡の水の無くなった用水桶の脇で拾ったからと、焼けこげた位牌の一つを裏側に書かれてあった俗名を手がかりに親切に家の方に届けて下さった。それが祖父母の位牌だった。父は両親を助け出したように、その焦げて半かけになった位牌を大事に大事に拝んでいた。後から母や兄の位牌を、その付近にさがしに行ったがとうとう見つけ出すことは出来なかった。やはり父を守って体に火が付いた時に目の前に防火用水のあるのを知らせ、仏が身代わりとなってくれたのかと、その時以来、霊魂というものの存在を信じたくなった。あの時父が位牌を下げていなかったら、空襲で命を落していたかもしれぬと、後になってからも思い出すたびに恐ろしくなったものである。














 
     帰 宅


 小林さんで朝風呂をいただいた。自分達の着替えをどうしたのかは記憶にない。泥水につかったりした衣類等は全部洗って、生け垣にまで干したのを覚えている。
 小林家は鉄道関係者の家だったので、私たちの他にも水鉄の被災者や知人の方々など数多い人たちの面倒を見られていて、家中、大変なさわぎだった。
 お手伝いに東原の町内や小林さんの知人、婦人会の方々など大勢の人たちが集っていた。このみなさんからの炊き出し、熱い御飯に生卵、久しぶりのおいしい味噌汁、その朝食の味は生涯忘れる事は出来ない。
 翌日になってからと思うが、東原の旧道50号線にあった小林さん宅を出て、焼け跡に行ってみることにした。東原から東町(現在のスポーツセンター十字路)まで来ると、家々が焼けている。久保町【大工町三丁目】の一部には焼け残った一区画があったが、浄安寺から先は、駅まで見通せる位、一面の焼野原が広がっている。逃げる時、一時避難した大きな防空壕も完全に焼けていて、そのまま留まっていたら・・・ と思い出して寒気がした。
 向井町二丁目(現在のつくし堂)の位置から大工町広小路の方を見下ろすと、広小路から大工町、泉町にかけて見渡すかぎりの焼野原。あのにぎやかな街並みの跡をしるす残骸のように、所々に焼け焦げた土蔵だけが残っている。唯一、三菱銀行の石の建物だけが建築物らしい姿を留めている。道路には焼けただれた電信柱から、電線や電車の架線が垂れ下がり、あちこちでまだ煙がくすぶっていて、焦げくさい臭気がたまらない。
 やっと家の前まで来てみると、軍司さんも瀧田さんも吉田さんも土蔵が残っている。すべてをそれに頼りきっていた我が家の土蔵だけが、東倉・西倉の両方とも完全に駄目になっていた。一部工業薬品の入っていた、下屋の部分が黒煙を上げてくすぶっている。土蔵は、うなぎの寝床のような細長い宅地の一番奥 なのに、表の道路に居てさえ、足の裏に熱さが伝わって来る。座敷の奥の方へは熱気がこもっていて、とても入ってはいけぬ。その上、お隣の吉田さんの西側の油倉庫が周囲の熱で、周りの火災が収まった頃になって火を吹き上げ、その黒煙がまだ立ちのぼっている。
 吉田さんでは油倉庫の余熱で正面の土蔵にまで火が入りそうになって、多くの人達が集って、丸一日がかりで土蔵に水をかけて冷やし、なんとか助かったそうだ。
 向う三軒両隣の人達は皆無事であった事を知り、喜びあう。ふと見ると、焼け跡の焼けただれた水道管から、佗びしげに水が滴り落ちている。この付近は大工町界隈の市街のなかでも比較的低地なので、焼けても水だけは不自由なく出た。大工町や泉町の焼け跡では、一滴の水も無くて、バケツややかんを持って、この辺まで水を汲みに来る人達があった。その方々から、大工町や泉町の親戚、知人達の安否を知ることが出来た。




































 
     救 援


 やがて、広小路に市の炊き出しの車が来て、被災者にお昼のおむすぴを配った.近所の方達と揃って一人一個のおむすびを頂いて来る。
 日赤の救護班も到着した。父は一応自分の救急薬で怪我の手当はしていたが、焼夷弾の火傷は後で傷が腐るというデマが流れていて、医療班の治療を受けておいた方が良いと周りから言われ、父もたいした手当はできまいがとつぶやきながらも、早速、治療を受けに行った。案の定、軍医の治療は全部ヨードチンキを塗るだけの処置で、しばらくはかえって傷の痛みがひどかったようだった。
 そうこうする内に、規制されていた市内への、人の出入りも許され、近在からの見舞の人達が市内に入って来た。いち早く石崎の知人から、おひつに入れた沢山の御飯とお菜が炊き出しとして届いた。荷馬車の都合で(当時は荷馬車も徴用されていたり、軍の仕事優先だった)疎開荷物を受げ取りに来るのが遅れたばかりにこんなことになってと、焼け跡を見た旦邦のくやしがりようは、ひとかたではなかった。長岡から水戸までは、馬車が入れぬため、歩いて食料だけを持って来てくれた。規制していて本当の見舞の人だけを市内に入れていたらしい。その心尽くしには本当にありがたいと思った。
 それに続いて父の友人知人が、那珂湊や石岡等、各地から見舞いに来てくれた。人の好意のありがた味をこのときほど感じたことはない。お陰で我が家では、市からの炊き出しを受けたのは、ただ一回ですんだ。見舞の炊き出しは、隣近所に分けても充分にあまるほどだった。
 焼け残った一番身近かな親戚は、馬口労町【末広町一・二丁目】の富田さんだった。伯父に勧められて三日の夜から、馬口労町の吉野屋【戦前の建物が現存】に夜だけ泊まることにした。
 火事があると蚤が移動するとは、よく聞いていたが、その晩 からがそれ。こんなにも小さな蚤がよく逃げて来たものと感心 するほど、焼け残りの家に蚤が集った。畳のへりに一列に並んで、お尻を持ち上げているユーモラスな格好の蚤が、指先でそれも両手でヒョイヒョイつかまえられるほどたくさんにいた。六畳一間に五人、焼跡整理の疲れを休める事も出来ず、一晩中蚤との格闘で夜が明けた。
 伯父の身内も焼け出されていて、吉野屋は裏の茶室までいっぱい。伯父の采配で私達一家が一番良い場所を占領する格好になり、日頃はあまり親しく交流がなかっただけに、父はだいぶ遠慮や気兼ねがあったようだ。
 そこで、再三家に来るようにと声をかけてくれていた東原の小林さんのご好意に甘え、バラックの出来るまでの間、寝る場所として部室を借りる事に話が決まり、小林さん宅に引き移って下宿生活のような日々になった。






































 
      焼跡の整理


 それからの毎日は、焼跡で灰にまみれての整理。それまでは冷夏だったのが、被災した次の日からは、急に土用の暑さになって、強烈な日差しが照りつけるようになった。日陰一つ無い熱気の中での焼跡整理中にもまだ空襲があって、焼け野原にグラマンが飛来し、機銃掃射をあびた日もあった。暑くても防空頭巾は離せず、我慢して背中に掛けて仕事をしていた。なんとか一張り借りられた小さなテントの下が唯一の日陰の場所だった。
 まずは、元の門の位置に、板きれに移転先・連絡場所等書いて立札にした。
 父は県薬剤師会や、関係組合・町内会と役目が多く、さらにあの頃はすべて何をするにも、組合とか町内会とか組織を作って事に当らなければならなかったので、もっぱら県庁や市役所へ日参する毎日。焼跡整理は、私達四人で当らなければならなかった。谷中【末広町三丁目】の成井さんからは、焼け残った家からの、女学生の奉仕隊として、二人が連日手伝いに来てくれた。
 灰の中から焼釘を拾うことからはじまり、バラック作りに使えそうな焦げた柱やトタン板を集めた。焼ける前の物置が全部波トタンで出来ていたので、バラック作りの焼けトタン板には不自由しないと思っていたのに、夜間私達が宿泊所に帰っている留守にその大半が盗まれてしまった。さらに焼け棒杭も目ぼしいのは、全部焼跡泥棒に持って行かれてしまって、予定が大きく狂ってしまった。
 早々とオール・トタンのバラック小屋があちらこちらに出来てくる。要領がいいと言うか、生活力があるというのか・・・。焼け跡では金持も貧乏人も無い。その家の実力は焼トタン小屋の出来具合で競うかのようだ。とにかく早くその土地に小屋を造って住み着いた人が勝。
 焼釘をさがすのに灰をふるっていると、薬瓶等が溶けていろ いろなガラスの色が重なり、思いがけぬ美しい宝石の玉のような ガラス玉が出て来たりすると、煤にまみれていてもやはり女の子は女の子、色の美しいのを拾っては、何にするわけでもないのに、よろこんで持っていたりした。
 門から土蔵に通じる直線の通路を最初に整理する。土蔵の跡は、中央の荷物の山が、腰回りを残して燃えつきるまでの数日間くすぶり続け、熱くて手がつけられなかった。何とか触れられるようになって整理を始めると、兄が大事にしていたレコード盤が、五〇〜六〇センチ位の高さにその形のまま、炭のようになっているのがみつかった。
 その炭になった盤を一枚一枚手ではがしてみると、当時高価だったベートーベンの名盤などのラベルが見える。兄が見たら涙を流すだろうと、毎日おしみながらも、お芋ふかし等の貫重な燃料として使った。コークスと同じようで、少しでも強い火力があり、その意味ではとてもありがたかった。
 やがて整理が進んで、今まで生活していた家屋の土台回りが、それだけが、あらわとなって来た。それを見つめていると、いくら戦災とはいうものの何とも言えぬ佗びしい思いがした。
































 
      行 列


 焼跡整理の合間には、罹災証明書を取りに行ったり、戦災者への配給物資を受け取りに行ったりしなければならなかった。それは一町内といった単位の事ではなく、ほとんど市内全部の事だから大変だった。上市の人は、証明書を取りに県庁まで行く。市役所が焼けてしまったため、臨時の事務取り扱い所が県庁前広場に出来た。私も近所の方達と出かけて行った。一つの証明書をもらうのに、二時間位炎天下に行列する。
 県庁前のお堀端から市内の野原が一望に見渡せた。向井町一丁日【大工町二丁目】は周りよりやや低地なので、普通はその場所がわからないが、吉田さんの油倉庫が黒煙を上げて数日間燃え続けていたため、県庁からも良く家の位置の見当がついた。
 県庁で並ぶ時は全部の人が罹災者だからよいけれど、主食の配給を取りに行く時は、砂久保町【新荘一・二丁目】の配給所あたりから新荘小学校・馬口労町と焼けなかった地区の人達もたくさん来る。主食のお米のかわりの馬鈴薯の配給の時など、焼けなかった地区の娘盛りの人達は、身ぎれいに自転車やリヤカーで取りに来ているのに、罹災者の私達は灰まみれで木製の大八車。(車体全部車輪までも重い樫の木等で出来た車)車自体が重くキリキリきしむ音がする。車を引っぱって配給の列に並ぶ時は、若い娘だけにとても抵抗を感じた。
 しかし、配給物は罹災者優先になっていたので、焼けなかった組はまた別の面の苦労もあったらしい。














 
      野天風呂


 焼け跡には、一軒づつの境界が無くなり、角の床屋さん(一弘堂書店)から軍司さん(現桃苑【廃業】)の路地までが一座敷のようになって、自由に行き来していた。家ではテント小屋を物置跡に作ったので、父は県庁等に行く時は魚政さんの敷地を通って広小路に出る。帰って来る時はテントの中に居ても、泉町四丁目付近を歩いて来る父の姿が良く見えた。便利といえば便利だが、なんともわびしい便利さだった。
 軍司さんで、五右衛門風呂の浴室がタイル張りで、焼けても風呂釜と洗い場が使えたので、周囲を焼トタンで囲って焼け跡での初風呂を頂いた。その後、吉田さんで風呂場の土台が残っていたので、商売道具のドラム一缶を据えて天幕を張りめぐらせ、野天風呂をこしらえた。灯心で明りを取り星空を眺めてのドラム缶風呂。風流というか野戦場のような体験。ドラム缶の縁が高過ぎて出入りに苦労をしたが、レンガで台を作り、楽に入れるようなった。入ってしまえば、深さがあるのでどっぷり首まで浸かれ、実に気持ちがいい。近所で交代で水汲みや風呂わかしをし、ありがたく利用した。
























 
      葬 列


 焼け跡の整理が進み、道路が通れるようになると、雷神前通りを、神崎寺や神応寺に焼死者を埋葬する方々の行列が、毎日通って行った。直撃弾に倒れた人、あるいは、防空壕の中で一家全滅という人々、死者の遺体は焼トタンに棒を渡した簡易担架に乗せ、上にまた焼トタンをかぶせただけ。家族か近所の人達、二三人に守られての野辺の送り。
 障害物の何もなくなった焼け跡では、奥の方の片付けをしていると、雷神前通りは目の前、自然に目に入って来る。今行った行列は、どこそこの誰と見当のつく時もあり、中には焼け爛れた黒い手足がそのままはみだして見える時もあった。そのたびに仕事の手を休めて、佗びしい葬列に涙ながら手を合わせた。間一髪で我が身にも振りかかっていた運命かとおもうと、あの夜の凄惨な光景が目に浮かび、生き残れた事への感慨を静かに噛みしめたのだった。






























 
      原爆投下とソ連の参戦


 八月六日の広島への原爆投下の報道は、小林さん宅で聞いた。広島市に強力な特殊新型爆弾が投下され、大きな被害が出たとの大本営発表だった。大本営で「被害甚大なり」と 今までにない被害発表をしたからには、相当威力のあるものらしい位にしか、我々には想像出来なかった。そして九日には、長崎市にも、新型爆弾(当時はまだ原子爆弾とは言わなかった)が投下され、被害は「非常に甚大である」と発表になった。
 それに引き続いた大本営重大放送で、ソ連の参戦が報じられた。それまでは、日本はソ連と不可侵条約を結んでいたのでソ連の参戦は予想もしなかったのに、宣戦布告をして来てソ満国境が戦闘状態に入ったとの事。日本は、日ソ間は協定を結んでいるからと、安心しきってソ満国境の警備を苦戦の南方に移動していたところへの、突然の宜戦布告。なんと卑劣な行為と、みんな大変に憤った。
 日一日と日本が不利になっていく状況が感じられ、ここに来てとても勝利を望む事は無理に思われた。上陸して来る敵をいかに迎え撃つか、そのための気力を持たねばと勇んでみても、沖縄戦と同じように玉砕をするまで戦う覚悟をするのはやはり大変なこと。本土決戦を思い、絶えず恐怖感が襲って来たのは事実だった。此の辺で神風が吹いてくれぬかと、誰もが神国日本を護る神々に頼るしかない状態になっていた。




























 
      終 戦


 十四日、父は県庁から帰って来てからとにかく不機嫌だった。父は、日頃、家庭外であった事に対し、子供達の前であまり喜怒哀楽を表わさぬ人だったのに、その日ばかりはいらいらしていた。何やらブツブツと言い、今まで決して言った事が無い日本の敗北までを口走っていた。県の上層部からなにやら耳にして来たという。明日天皇陛下がラジオ放送をするらしい、とも言っていた。
 十五日の朝、今日の昼に天皇陛下の玉音放送がある、国民こぞって放送を聞くようにとの通達があった。たぶん陛下が本土決戦に備えて叱咤激励するのだろうと、皆、気を引き締めた。しかし焼け野原にいる私達は、ラジオを聞く事は出来ない。焼け残った新荘小学校で玉音放送を聞くようにとの連絡があり、小林さん宅から威儀を正して新荘小学板の校庭に行く。
 時間前から大変な人が集って来ていた。天皇のお声をラジオで聞くことができるというのは、前代未聞。現人神であられ、当時は学校などに奉安殿を設けて、御真影としてお写真を安置し、朝夕の登下校時には、その奉安殿に最敬礼をしていた時代である。雲上人の陛下のお声とはいったいどのような声なのか、国民にどのような決戦の詔勅・みことのりを申されるのか、詔書としての伝達でなく、マイクを通して直接国民に語りかけられる『玉音放送』というのだから、大騒ぎも無理からぬこと。現代の人達にはとても想像もつかぬ騒ぎだった。
 放送の五分前にアナウンサーの厳粛な声が放送開始を伝え、校庭に集った人達は、ラジオ体操の時の台に向うように、ラジオの方向に向って直立不動の姿勢をとる。
 肝心の時になって、ラジオがビービーガーガーすごい雑音。 後になってわかった事だが、電波妨害が入ったのだ。雑音の合間に聞えて来るのは、玉の声ではなく、神社の禰宜さんの祝詞のよう。一般民草には、何を言っているのかさっぱり訳がわからぬ。  「堪え難きを堪え、忍び難きを忍んで」 のところだけが 聞き取れて、あとはまた雑音と祝詞で、流れるように終ってしまった。 「これで放送を終ります」とアナウンサーの声がしても、周囲の人達は、天皇の声を聞いた興奮が冷めぬまま、何をいったい言われたのか内容がつかめぬままの、チンプンカンプン。知ったか振りに、「国民一致団結して本土決戦に備えてくれるよう」との激励のお言葉だったとありがたかって、勇み立つ人もいたが、大方はわからぬままに静かになった。父は、やっぱり・・と、言わぬ気に肩を落し、水高横から梨畑を抜ける来た時の道を、ただトボトポと小林さん宅に戻った。
 帰宅してからも、又隣近所の人達大勢集って来て、玉音放送の解釈に入ったが、なかなか話がこみ入るばかり。その内に号外が手に入り活字になった原文を見て、日本がポツダム宣言を受諾して戦争が終結し、結局は負けてしまった事がわかった。日本の歴史はじまって以来の出来事。玉砕しても敗北は無しで通して来た国、ここまで戦って来て敗戦国に。国民を襲った虚脱感は、たとえようもない。日本全土が敗戦の悲哀に包まれる。
 敗戦により父達には、又新たな心配事が襲って来て、小林さん達とそれは真剣な相談事がはじまった。私達三人姉妹と小林さんの一人娘、本宅に居た三人の女の子供達、それから数日は、本気で娘達の髪を切らせることと、近くの雑木山に小屋を作って娘達を隠さねばと男の人達で集っては、頭を痛めていた。捕虜となってヤンキーの餌食にされるよりはと、父はいざという時には、青酸加里を飲ませる覚悟をしていて、実際に用意もしていた。
 でも、そんな混乱も、日一日と時が過ぎるにしたがって、次第に落ち着いて来た。




























 
     奇跡の復員


 あの玉音放送以来、元気になったのは、床屋のおばちゃん。
 一人息子がビルマ戦線に行っていて、果たして無事帰還出来るか、どうか、まだわからぬ時「戦争が終って一男が帰って来る」と毎日信じきって、念仏のように、唱えるように言っていた。
 隣の野口さんでは、幼い子供四人をかかえて旦那にグァム島で玉砕された公報が入って来ていて、その遺骨引渡しの通知が市から来ていたのに、本当の遺骨が入ってないから受け取らぬと。当時、遺骨と言っても骨が帰って来るのは、殆どなく、現地の土か名札だけと言う人も沢山あったと言われていた。野口さんも旦那の死を信じなかった。
 奥さんの信念が通じたのか、ジャングルで生きのびて、終戦二・三年後に無事生還。また、床屋の一男さんも共に復員して来たのが、町内としても何よりの事だった。
































 
     兄二人の復員


 罹災者には、終戦は来なかった。これだけ惨めな焼け出された者を、何もかも無くなってしまった時点で戦争が終りました、では、此の責任は誰が取ってくれるのか。罹災した当初は、友人知人から随分と濃やかな見舞も受けたり、市当局も罹災者優先に物資の供給もしてくれた。しかしそれは本当の一時期、焼けなかった人達にも、言いつくせぬ物心両面の痛手が残った。
 焼野原に放り出されて終戦を迎えた我々には、先ず生活するための家を建てなくてはならぬ。
 焼跡の整理もつかぬ、終戦二日目の夕方、焼ぼっくいの掘っ立て小屋に、甲府の陸軍病院に居たはずの兄が、傷病兵の白衣に風呂敷包み一っかかえて帰って来た。身を横たえる場所とて無い、運の悪さとはそう言うもの。自分の家に帰れたという安堵からか、空元気を出して、今考えても恐ろしい事だった。炎天下の焼け跡で不自由な足をかばいながら、我々といっしょになって跡片付けや、バラック作りの作業をやっていた。即刻、水戸の陸軍病院にでも転院の処置なり取ってくれていたらよいものを、敗戦で甲府の陸軍病院でもきっと、ごたごたしていたのだろう。所属が軍医学校の幹部候補生であったため、追い出されてしまったような形で帰され、最悪の状態の連続で後になって、大切な兄弟の一人を、戦争が終っていながら早死へ追いやる結果になってしまった。
 九月に入って、大阪の航空通信隊に行っていた、上の兄も復員して来て家族は揃ったものの、夜間は半分は焼跡のバラック、半分は谷中の親戚の二階を間借りして、寝泊りの生活がしばらくの間続いた。










 
     復興へ向かって


 戦災地に対する都市区画整理が実施され、敗戦直後の事とて国からの補償などほとんどなく、強制執行の形で道路拡張に宅地は取られ、建築の坪数制限などあって、戦後のインフレ、金融封鎖等々相まって言語に絶する苦労の末に、店舗兼住宅六畳二間、そして制限坪数にかかるため家族を二分し、別棟に十四坪五合規準いっぱいの公団住宅が出来、畳の上での家らしい住居生活が出来たのは、二年後の事たった。
 戦争体験者には、私達以上の苦しみをした人達が多数いる。しかし我々のように、女親の無い戦中の家庭生活、家庭内の事には一切無頓着な男親と、三人の食べざかりに戦傷復員者の兄、幹候上りの中尉で当番兵に身の回りの世話を受けていた頃の将校気分が抜けない上の兄、裟婆の生活に馴れるまでの間、そんな細々とした事まで戦争の尾は引いていた。そんな中、一番苦労していたのは、二十歳そこそこの姉達だったと思う。






























 
     戦争の記録を後世に


 戦争と言うと、第一線の戦場に駆り出された兵隊さんの苦労をねぎらう言葉が多く聞かれる。たしかに外地の激戦地に戦った人達の苦労は言語に尽くせぬものだろう。
 しかし、兵隊に行かない者にも銃後の苦労、挺身隊や、学業を放棄しての工場動員。空襲や戦災を体験して来た人達も、戦場と同じ様な苦しみを舐めて来たと思う。戦争による物質的損失、青春を奪われた痛手、我々の年代に残ったものはそれらもろもろの事実だけだ。
 時代は推移し、あのどん底の日本も世界第一の富める国となり、日本人が最も苦しんだあの四年間の事は、学校教育でも抹殺されようとしている。戦争を知らぬ戦後生れが全国民の半分以上になってしまった。
 戦争の体験者は、一時はあの暗い時代を思い出したくないと黙って、時折聞える軍歌のメロディーに、なつかしい青春を部分的に語り合うだけであった。家庭においても戦争体験者が少なくなって来て、将来ますます戦争を語り伝える人がなくなるのでは、と思う。
 長い間綴った日誌が残っている。頭のあまりポケて来ない内に、我が家の歴史の一部として、この様な時を過ごした時代もあるのだと、当時を思い出すままに、体験した事を飾り無く、記録として残したい。記憶はほぼ間違いはないと思うが、教育不足の者が綴る文のまずさや誤字は、それでも書き残してみたいと思う意欲を汲み取って許していただきたい。












 
   戦没者の御冥福を祈りつつ


 仏教界では、三十三年過ぎると、土に帰ると言われているとか、戦争犠牲者を祀る靖国神社も時代と共に、云々されるようになり、改めて時の流れを感じる。国のために犠牲になった人達を国が顕彰のため祀る神社、外見上が神社であれ、天国にある御霊に、各宗教こぞって冥福を祈って当然と思う。宗教にはそれ位の霊をなぐさめる融通性があってもよかろうと私は思うのだが・・・。天国は一つと思われるのだから。
 戦闘による死者・原爆等戦災死者・玉砕者・戦犯処刑者と犠牲者一人一人の死を改めて思いおこすと、悲惨な事ばかり。今は天国にある全国の犠牲者に、心より冥福を祈ってやまない。


   昭和五十四年三月 記録

                              完




「付記」
 私のこの記録の保存の為に、編集・ワープロ・コピー・製本の総てに、ご協力を戴きました義兄 栗山忠雄さんに、感謝致す次第でございます。


      昭和六十三年八月
                      成井 信子









  補筆・ホームページ製作  栗山 洋一
     ネット掲載にあたり、文章にわずかですが手を加えました。
     修正部分の文責は、栗山洋一にあります。
         平成十六年七月





 
ご来訪数: